昭和40年05月30日 夜の御理解
今晩方、お風呂を頂かせて頂いておる時でございました。私はいつも、あのう、夕方うす黒なりにお風呂に入ります時、少しはあのう薄暗いですけれども電気をつけんままにお風呂を頂くんです。それで、本当にあの、その、お風呂なんかもう一生頂かんと思うとった時代もあったし、明かいとか暗いとか、もう真っ暗な中でも、もうお風呂に入って汗を流させて頂きゃあ、もうこげん有難いことはないし。
要するに、お風呂でももらいに参りますと直方の場合なんかはもう、人気もないのですけども暗いとこ入らなならんです。もうお風呂が汚れておろうが、どうかそんな事なんかはもうない。とにかく温かいお風呂の中に入って、汗を流させて頂くというのだけでも有難い、といった時代があった事を思うてから、いつも私そうするんですね。したらあの外から家内がカチッちゅうてからあの電気を点けてくれたわけなんですね。
今まで私あんな時に、点けんでよかがっとかこういうふうに言うんですね。ところが点けてくれましたら、やっぱり風呂の中が明るくなりましたら、その、なんの抵抗もなしに有り難いなあとこう思うたんですよ。そしたら、神様がすぐ私にお知らせくださるんですね。心の状態がです、そう、頂いたことはいろいろあるんですけれども、まあ、頂いたことをかいつまんで申しますとです、心の状態がですね。
この有り難いなあと思うておる時とです、ね、修行の精神がやっぱり心の中に旺盛である時と、それから巡りの自覚がこの三つがです、万時と思えない様にいちようのその、心の中にある時、それがもうなんの抵抗もなしどのような事でも有り難く頂けるんだということを頂いたんですね。してみると皆さんその心がよかっとっても有り難いと思えない時なんかは、この三つがですどうか調子が狂っておる時なんですね。
つまりその、修行さしていただくというその修行の精神がいつもこう、心の中に旺盛であるということ。信心さして頂いておる事が有り難いなあと心の中にいつの間にか感じるという。同時に、巡りの自覚、でその、ほんとにあの、ではなくても巡りが大きい、巡りを持っておる自分ですから、これ以上巡りを積むような事があっちゃならん、また、巡りに負けるような事があっちゃならんというような思いが。
そういうような心の状態が、まあ、三つバランスがとれてですかね、調和が保てれて自分の心の中にあるという。まあ、どのような事柄でも、例えばんなら、お風呂に入らして頂いて、電気の点けてないことを修行さして頂いておるとか、ね、勿体無いと思うておるとか、そういうような心の状態の時であっても表からカチッと電気点けたら点けんでええがと言うたら、もうその修行は値打ちはないわけでしょう。
せっかく自分が修行しよるとに、バチバチ電気点けてから勿体無か。とこげなん事ではですね、勿論修行も、言わば消えてしまうようなもの。私の心の中に、いつも有り難い、信心を頂いておるという事が有り難いという心と、また、修行精神、三つとも神様が自然に求めてくださる修行ならいつでも合掌して受けて行くぞというような心と、好きなものの中に、例えば、巡りが爪を研いで待っておるような場合がある。
難儀の中に、例えばその巡りなんかっていうものはない。むしろ、例えばんなら、酒の好きな、好きな人ならば酒の中に、ね、甘いものが好きな人の場合は甘いもの中に、巡りが爪を研いで待っておる。そういう巡りを、また作るような事があっちゃならんぞと心に慎みを持ち、ね、巡りの自覚に立たせて頂いておるだけを。十人の心の中に神様が求めたまう修行ならどげなん修行でも有り難くさして頂くぞと言う様な元気な心と。
信心を頂いておるという事が、有り難いなあとそう言う様な心が、自分の心の中に調和を保っておる時です。どのような場合でも抵抗なしに、どのような事柄でも、有り難いなあ、有り難いなあという事になるわけなんですね。そういう一つ心の上に、その三つの事柄がですね、心の中に調和保っておれれるような状態を願わなければならん。そういう心を和賀心と言うのではなかろうかと私は思うですね。
おかげを頂き……。